契約自由の原則とは、私的生活関係は自由で独立した法的主体である個人によって形成されるべきであり、国家が干渉すべきではなく個人の意思を尊重させるべきであるという私的自治の原則から派生する原則をいう。この原則は、「レッセ・フェール」の思想の法的な表れとして意味をもつとされる。
東区
名古屋市を構成する行政区16区のうちの一つである。
1908年の区成立時の名古屋市において東部に位置した地域であったことからこの名がついた。
東区に相当する地域の町づくりは江戸時代初期の清須越に端を発しており、名古屋城の城下町としての武家屋敷や寺町がその基である。明治に入り、名古屋市に区制が引かれた際に当時の市域の東側であったことから名古屋市東区が生まれ、その後周辺の町村を編入する一方で区域の一部を千種区・北区へと分離独立させながら現在に至っている。2012年時点で現存する日本の行政区名○○市東区の中では最も古い。
2012年時点での東区は名古屋市において位置的に都心部を構成する行政区であり、全域が市街地で区全体としては基本的に住宅地としての性格が強いが、区の南西部は主要企業の本社・支社が並ぶ商業地域となっている。北東部はかつては工業地区として各種の大規模工業施設があったが閉鎖が相次ぎ、商業施設等への転換が進んでいるものの一部の工業施設は残っており、工業地区としての側面を残している。区内には、江戸時代からの町の歴史を感じさせる徳川園、徳川美術館、建中寺や、明治以来の面影を残す白壁・主税(ちから)・橦木地区がある一方で、主に南西部を中心に現代的な施設や町並みも複数ある。
1987年9月に制定された東区のシンボルマークは東=EASTのEをベースとしてデザインされており、区民の和と明るい未来を象徴するよう全体に丸みを帯びた意匠となっている。
東区は東北東から西南西方向に細長い形状の区域を持つが、JR中央本線によって大きく東西の二つに分かれる。
地形・地質の面からは、東区区域の大部分が名古屋台地(熱田台地)の海成段丘上(熱田面)に位置するが、区域のうちJR中央本線の東側の部分を中心に名古屋台地から外れ、一段低い地域となっている。JR中央本線西側の地域は大曽根地区などを除いて名古屋台地上の地域といえる。またJR中央本線沿いの地域は矢田川の氾濫によるものと考えられる大曽根面の地層となっており、地質的には名古屋台地の熱田面を2つに分ける形となっている。
2010年時点での区域を全体としてみると大部分が商業地や、住宅街などの市街地であり、農地はほぼ存在しない。区の南西部には多数の企業が本社や名古屋地区における拠点を置いており、中区の隣接区域とともに広義の栄地区の一角を構成して、名古屋市の商業の中心の一つとなっている。区の北東部にはかつては三菱重工業名古屋発動機製作所・日本たばこ産業名古屋工場などがあり工業地区を形成していたが、昭和末期から平成にかけて閉鎖が相次ぎ大規模な工業施設は少なくなった。これら矢田南・大幸南地区には、工場跡地を利用してナゴヤドームや複合施設カルポート東(文化小劇場・図書館・スポーツセンター・市民ギャラリーが所在)などが建設され活用されている。また、守山区との境を流れる矢田川沿いの地域には、昭和50年代に建設された集合住宅群がある。区中央部の徳川町には徳川園、徳川美術館、蓬左文庫がある。また、この周辺およびやや南西寄りの白壁地区は市内有数の高級住宅街として地元財界人等が多く居住することで知られる。この白壁・主税(ちから)・橦木地区は武士屋敷の面影を残し、市の町並み保存地区に指定されている。
交通面では、JR中央本線と地下鉄名城線が交わる大曽根を基点として、名城線・名古屋ガイドウェイバスガイドウェイバス志段味線(ゆとりーとライン)が横断している。区南部を桜通・錦通が横断し、それぞれ地下鉄桜通線(桜通)・東山線(錦通)が通る。
名古屋市16区の中で人口密度が一番高い区であり、一番面積が小さい[注 7]。中区と並び名古屋の都心を構成する行政区であり、長年ドーナツ化現象によって人口が減少していたが、近年になって大曽根駅周辺の再開発やマンションの建設ラッシュなどで再び人口が増え始めている。2010年国勢調査における東区の人口は73145人、世帯数は38598世帯であり、2005年国勢調査における人口68485人、世帯数33659世帯と比べてそれぞれ人口6.8%、世帯数14.7%の増加となっている。
北区
名古屋市を構成する16区のうちの一つである。
1944年に当時の東区と西区のそれぞれ一部を併せる形で成立した。区名は、当地が区制施行時における名古屋市の北部に位置する地域であったことに由来する。
名古屋市の北部に位置し、JR中央線、地下鉄名城線、名鉄瀬戸線や名鉄小牧線などの鉄道、名古屋高速道路1号楠線、国道19号、41号などの幹線道路が南北に走っている。
以前は区内に工場が多く見られたが、現在は撤退し、その跡地に大規模な公営住宅やマンションが多く見られ、緑区、中川区に次いで、市内の区では3番目の人口を有する。
北区の区名を持つ現存の行政区のうちでは最も古い。